昭和五十六年五月八日 朝の御理解
御理解第五節「これまで神がものを言うて聞かせる事はあるまい。何処へ参っても片便で願い捨てであろうが。それでも一心を立てれば我が心に神が御座るからおかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだ事なし。此の方が祈る所は天地金乃神と一心なり。」
教祖様が此の方が祈る所天地金乃神と一心なりと仰せられる。私が祈る所生神金光大神と一心なりというてもいいように思います。
ですから合楽では親先生の祈りと皆さんの祈りとが一致合意する時に私は天地金乃神と一心なりという働きが起こってくると思うですね。親先生に帰依し、親先生の生き方を学ばせてもらい、親先生が祈っておられる所を自分の祈りとする。
毎朝総代さん方が又修行生の先生方がお取り次ぎを願うのはそうですよね。親先生の祈りが一つ一つ成就していきますようにと、云うなら和賀心時代が世界の津々浦々にまでもと、これは私の祈りですから皆さんがそれを祈られる事は私と一心という事になるのです。
そこにね、私はこれは合楽の独壇場と思うんですけれども、天地がもの言うて下さる。今迄何処へ参っても片便の願い捨てであったろうがと、昨日或る教会の御信者が二度目のお参りを大変体が悪かったのが、本当にお取り次ぎを頂いた時点からおかげを頂いて今日又お友達のちょっと体の悪い頭のちょっと悪い方をお導きして参ったという方のお届けなんです。
私の参っておる教会の先生に今日から私は合楽にあの今日からじゃない只今から参らせて頂きたいと思います。就きましてはもう此の頃年を取りましてなかなか御本部参拝も出来ませんので、確かに合楽の先生は教祖様のようなお方ですよ。だから私はあちらも御本部参拝と思うて時々参らせて頂きますと言うたら親先生が大変喜ばれたというお届けがございました。まあ喜ばれたかどうかは知りませんけれどもね。
まあ教祖様と思うて参ってくりゃ教祖様としてのおかげが受けられるのです。甘木初代が言っておられたように、甘木の近所の者はおかげ頂ききらんけれども、よそから遠くから参って来たもんがようおかげ頂くのはどういうわけでしょうかというてお尋ねしたち、遠くから参ってくる者は甘木の生神様というて参って来るからじゃとおっしゃったという事です。ねえ、だから無理に生神様と言わんならんとか思わんならんというのじゃなくて、自分の信心がだんだん高度化してくる時にそれがいよいよ深い広いものになり繋がりともなり、そして合楽で頂いておる、云わば天地のリズムといいますこれがそのまま天地の云うならばもの言うて下さるのと同じですよ。
リズムにのって神様のお指図のまにまに日々信心生活が出来ておるというのですからね。昨日高柴さんの姪御に当たります石井妙子さんがお参りしてみえて、先だってからお取り次ぎを頂いて一晩泊まりの旅行をされた。ところが駅から降りてすぐ皆一同食堂に入った。そこの食堂に入ったところがあの割り箸がこう袋に入れてありますね、食堂の名前が書いてある。それにねその短い箸袋でしたけれども、それが先生何と合楽の色だったんですよ。カキ色なんです。そしてそれにね、屋号が和楽路という和楽の路と書いてある。それに“わらじ”と仮名うってある。もう私はこれを頂いた時にもう合楽の神様がつききりに付いておられるという実感でいっぱいでしたというて昨日それを持ってきておりました。そんな和楽路なんてまあ合楽だけしかない言葉ですからね。和楽の路と書いてわらじと読ませる。しかも合楽の色を使ってある。そりゃ合楽に参った事のある人じゃなかろうかというて言うた事でしたけれどもね。それからというものは、宿に着いても僅か二日間の旅行がもうそれこそ自動車のナンバーを見ても、どこへ行っても合楽の神様と共にありという実感でおかげ頂いたというお礼参拝があった。自分が昨日今日こう皆さんと一緒に旅行さして頂いとるが、私だけは和楽の道を歩いているんだというわけなんですね。
だから本当に有り難うして楽しゅうしてそのおかげが頂けたと。まさに神様がもの言うて下さっておるでしょうが、合楽の場合は皆そういう体験がある。皆さんも持っておられると思うが、それが日々そういうおかげの中にある。
昨日これも高柴さん所の娘婿であります隅井さん達が夫婦でお礼に出て来ました。今度お店が立派になんか出来ましたから、それの開店のお祝いをさして頂きたい。それには教会からもあのう式典に出て頂きたいといったような願いのもとにでしたが、その案内をこう見せて頂いたら今度電話が変わってる。新しい所へ移るから、そしたら電話が44ノ1001という誰でも覚えられるようなね。もうこれを見ただけでも隅井さん合楽の神様の御守護を受けておる事を思わにゃいかんばい、電話の番号ば見るたんびにこんな神様の働きがあるだろうかと、丁度私はここへ出て来る時にテレビであのうお掃除の道具を売っておる何とかいうね、あのうダスキンの社長は金光様の御信者だそうですが、あすこの電話番号は三つながら4444なんですね。四ばっかり。あげんとなら誰でん安う売るでしょうね。うちんとはこげん電話番号が悪かけんでち言うて、だからそげなふうであつめなさったつに違いないです。
金光様の御信心は四という字は“し”とは言わん“よん”という“善し”という善し悪し。それが44(よんよん)1001、上から読んでも1001下から読んでも1001という事になるわけ、しかも1001が素晴らしかばい。隅井さん改めておかげ頂いとる。本当ですねといったような聞いておられましたが、私共はその敏感にね神様をそこの声とも思われる、神様の願いとも思われる、神様の思いとも思われるものをそこに感じ続けていく事が私は神がこりゃもの言うてくれるという、ここでは今迄はお願いしてどうぞお願いしますだけのそれが信心だったけれども、当時教祖様の元にお参りされると必ず御理解はあった。その御理解そのままが神の声であったという意味でしょうねここでは。
けども合楽の場合は勿論神様のお声も御理解として頂いて帰れるならば日常茶飯事の中にも神様がこうささやき続けてござるというようなものを感じれる。
それは親先生の信心も一心一体、この方が祈る所、天地金乃神と一心なりだから天地がそのような働きを表して下さるんですよね。為にはやはり一心一体にならなきゃ出来ん。何時も天地がバックだなあと。
これも昨日丁度研修が終わった頃でしたでしょうか。高橋さんから電話がかかって来た。電話聞かせてもろうたら、大きな取引先のお得意さんから、あんたん所で取りよんなさるお米屋さんの紹介をしてくれとこういうのである。高橋さんの所では〇〇という米屋さんと〇〇という米屋さんと二軒から取っておる。だからどちらを紹介してあげたらよかろうかというお伺いであった。そりゃあんたがよかち思う方ばよかじゃんのと私は申しましたけども、そしたら言われる事が、今工場の方へまいりましたら出会った車が家の取引先の米屋であった。又工場に行ったら工場の前にそこの車が止まっとったち。そげんはっきりと神様のお答えを頂いとる、とるんじゃからそげなこつばいちいちお取り次ぎを頂いて電話かけたりしなさんなというてまあ申しました事でした。
高橋さんはその辺の所が分かっとっても又こうだろうかと思うとっても、くどらしゅう私がちょいちょい言うんです。又最近大変くどらしゅうなられたんです。だからそれではね、云うなら自分の信心の稽古にならんです。神様がもの言うて下さったつを又合楽の親先生に聞いちから通訳してもらわんならんようなこつでしょう。そうでしょうが。もう神様が言うて下さる事はぱあっ、ピンと分かる位な信心を早う頂かにゃ駄目です。そういう事が神様任せ、もう私は神様一本。なら私が死んだらどげんなるの後は。自分で天地との交流、天地との云うなら声が聞こえる位なおかげを頂いておく稽古をしとかなきゃいけません。まあ合楽の場合はいわゆる、もの言うて下さるという事が天地そのもの、天地との繋がりを感じますが、ならそれに、云うなら慣れるというか、はっきりそこに答えが出ておってもそれを又こう言っておるような事では信心の稽古にはならない。時には失敗したっちゃかまわん、頂きようを間違ってもええ、、そこにいよいよ自分のものになっていく事になるのですから。私はどうでも皆さんの信心がただ合楽に通うてくる、云うなら私の信心をだんだん皆さんが分かって下さったら、この親先生のお取り次ぎを頂いてから起きてくる事ならば、右だ左だになろうが、左が右になろうがおかげと頂けれるという信心こそが私と交流する、いうならば神がもの言うて下さる事の出来れる働きを茶飯事に頂く事の出来るおかげであると思います。此の方が祈る所は天地金乃神と一心だと、だから私は教祖の神様の御教えをもうそれこそ全般的にそれに傾倒しとりますから、私が祈りのある所金光大神の祈りと同じだと確信する。だから皆さんが親先生の祈る所、皆さんの祈る所が一心であれば親先生が天地に通うとるならば皆さんも又天地に通われるという事になるのじゃないでしょうかね。 どうぞ。